ご挨拶
今年も暑い季節がやってきたなーと思ったら急に寒くなってまだまだ気候が安定しないまるで自分の心のようだとなんかポエムっぽいことを考えながら半袖で震えつつもう肉まん売ってねぇじゃん!と子供店長のようにいきどおりながら焼き鳥とビールをいただく想像に胸を膨らませがちな今日この頃いかがお過ごしでしょうか?パクチーです。
さて。今日はちょっと賛否というか、定期的に揉めてるのを見かけるヤツです。そう、
「マーダーミステリーを体験したことを【通過】と呼ぶことについて」
ここから先はこの話題に対し真剣に議論している方にとっては単純に不快でしかないかもしれないので見ないでくださいね。
・・・見ないでくださいね?
・・・わざわざこんな辺境の記事を見つけに来て読んで「お前は違う!」とか言ってこないでね?
・・・お願いしますよ?
・・・芸人の押すな押すな展開じゃないですからね?
まずは自分の感覚
ぶっちゃけ自分は「どっちでもいい」と思ってるタイプです。
ただ、嫌がる人がいるならわざわざ言わなくてもいいじゃーんって思ってます。
人の嫌がる事はしちゃだめ!ってじっちゃんかばっちゃんかオヤジかオカンか保育園の先生が言ってたような言ってなかったような気がするので。
オヤジはぜったい言ってないな。
さて。自分は学がないので、「本来は~」とか「これは〇〇の言葉で~」とか全く知らない。
というわけで「知らんなら黙っとけや」と言われそうなのでツイッタランドでの発言はしないようにしてます。実際にどっちでもいいなら言及する必要もないしね。
ただ、なぜそこまでアレルギー反応を見せるのか?という部分に関してはちょっと好奇心があるわけですよ。なので、なぜダメなのか?という点について誰も観ていない自分の公開日記で人に見られて「ネットに公開したならそれは云々」と別ベクトルのお叱りを受ける覚悟(スルーする覚悟)で当事者の皆様を完全に無視した独自の考えをまとめてみようかなーっと思った次第です。
そもそもなぜダメなのか?
なぜ通過という言葉が敬遠されているのか。
「通過」というのはTRPGから来てるらしいのでそちらの方面をネットで少しあさってみると、「体験を軽んじる感じ」「作業的な感じを受ける」みたいな感じでしょうか?
わかりやすい感想で
「このシナリオを別に遊びたいわけじゃなかったけど本当に遊びたいシナリオのために通過した」
という印象を与えられて同卓者が不快に思った、というような感想を見つけました。
TRPGは一度つくったキャラクターでいろんなシナリオを遊ぶからそういうのもあるんだー。あんまりやったことないから知らんけど。
いろいろ根っこを探っていくと、「キーパーや同卓者、作者に対してのリスペクトが感じられない」ということで敬遠されがち、ということっぽい。
別に軽んじてるわけではなく「みんなで一緒に通過した」という意味合いとして使っている人も当然いるので、そこは「通過」という言葉の捉え方の違いなんでしょうね。
言葉本来の意味、と言われるともう自分のような学のない者の領域ではないので、これは使わない方が無難だなーって感じるほどには敬遠されている言葉でした。
それでもみんな使うのはなんでだろ?
それでも文化?として根付いているということはそこにも理由があるんでしょう。
その理由は調べてもよくわかんなかった。
まぁわかりやすいってのはあるよね。
あとは「遊びました!」って素直に言えばいいだけなんだけど、それが逆に
「あれは遊びではない。人生そのものだった。遊びましたなどという言葉で終わらせたくない。」てな感じで特別感を出すために、「通過」を使ってるのかもとも思ったり。知らんけど。
「経験しました!」ってのはまたなんか違う感じするしね。意味合い的には「やったことがある状態になる」という意味なのでこれこそ感情が感じられない。
「体験しました!」もなんかしっくりこない気もする。なんか体験ってお試し感ない?職場体験的な。これは自分だけかも~。
どちらにせよ悪い意味で使ってる人ってほとんどいないと思うんですよね。わざわざ悪い意味で使う理由の無い言葉だし。
調べれば調べるほど、深く考えずに「遊びました」でええやん、と思いはじめる・・・
言葉の意味を調べてみた
というわけで「通過」という言葉の意味を調べてました。
1.通り過ぎること。止まらずにある場所を通り過ぎること。
2.さわりなく審議・審査などを通ること。パスすること。
うん。知ってた。
2については、まぁこれは違う意味合いだから考えなくてもいいよね。
さすがに「お前に審査されたくて作ったわけちゃうわ!」とはならないですよねー。2の場合は審査ありきの言葉なので。こちらはスルーしましょ。
では1を考えてみましょ。
「通り過ぎる」「止まらずに通り過ぎる」とあるので、このあたりからやっぱり「軽い感じ」が受けられますね。
製作陣やGM、同卓者からすれば、一度しか遊べないその体験を想い出として大事にしてほしい気持ちは多分あるとおもうんですよ。
自分も「ANONYMOUSおもしろかったなー」って言ってもらえたら嬉しいし。そういう意味では記憶の中で何度も「通過」してくれてるのかもしれないけども。
立ち止まってくれYO!って感じなのかな?
しかしまぁ「止まらずに」というのがやっぱ気になるよねー。とりあえず止まってよ、って思う。ここまで考えて、自分も通過って言わないようにしよーって思った。
自分はちゃんと止まってるよ!(たまに凄いスピードで走り去ることもあるけど)
別の意味で考えてみた
ふとここで「通過儀礼」という言葉を見つけたのでこちらも参考に考えてみましょ。
”引用
通過儀礼(つうかぎれい、rite of passage)とは、人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。
人生儀礼(じんせいぎれい)ともいうが、通過儀礼を広義に取り、人生儀礼を下位概念とする分け方もある。
”引用終わり
引用元:Wikipedia
こっちの意味だと自身の人生の一部になった感があっていいのかなーと思ったり。
まぁ言い訳としては苦しいわねー。そもそもこっちを連想しない。
まとめ
というわけで、今回の「通過」という言葉の是非というのは
「通過」という言葉の意味の解釈違いで生じるもの
って感じでしょうか?
言葉の意味なんて時代や文化によって変わってくるものなので、何が正解とか「本来は~」とか言い出したら不毛な争いにしか見えないんだけど、言葉ってそんなに軽いものでもないし、それこそ歴史や文化がそこにあるわけで。
難しい問題なので自分はそっとしておこ、と思った次第です。
※蛇足
自分の妻のことを西日本では「嫁」っていうんですけど、関東にくるとめっちゃ突っ込まれるんですよね。
最近は辞書にも西日本では「嫁」に「妻」という意味もあるって記載されているんですが、これも時代によって変わってきたヤーツですよねー。
とにかく、自分は争いごとは勘弁・・・
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